つまるところ。

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骨と十字架感想。

見てきたので。
最初に言っておくけど宗教観も人物像も個人の解釈であってそれ以上のものじゃないことをご了解ください。まじでまじで。あと作品も演出も好きです。人物に対してひどい見方をしている自覚はある。

この作品のテーマをエゴと愛と捉えている人をTLで見かけ、きれいな対比だなーと思ったので思考軸にお借りしています。

 
原罪と神への供物

エゴと愛、言い換えるとこういうことだと思っている。行為として似通うことは多々あるけれど、動機や視点は真逆だよね。(エゴそのものは「自我」という意味だが、愛と並べて語るならエゴイズムの略称と考えるほうがしっくりくるのでここではそう扱う。)
長くなったので結論のっけとくと、自分の気持ちを満たすためにするのがエゴ(罪)、必要なものをただ与えるのが愛(施し)として人物見てくと楽しいのではと思うんだ。
こっから先は個人の解釈だし劇の内容じゃないから飛ばすといいと思う。
前にもどこかで話したんですが、キリスト教の「罪」って「(神の意思より)自分を優先して考えたり動いたりすること」らしいんですね。アダムとイブは神の命令より美味しそうな実への欲望を優先した。七つの大罪も「主が与えてくださる以上に求める気持ち」がよくないとされる。まあでも人間が自分のことを考えちゃうのは生きてく上では当たり前なことで*1、だから罪を犯していることを認めるのが信仰の入り口とされるっぽい。伝聞系ばっかでごめんけど体感じゃなくて牧師さんに聞いた話の受け売りなので許してくれ。(というような保身が罪なわけだ。たぶん。)
一方「愛」とは何かといえば、見返りのない奉仕ではないかと思う。正確に言うと「人の世界で」見返りがない施しだろうか。神が見返りを求めず愛を注いでくださるように他の者へ施しなさい、というのが基本方針だったはず。
これを象徴しているのがマタイの6章だと思う。「施しは人の目につかないところで行いなさい(意訳)」って内容。人から評価される善行は徳ではない、何故なら人の世界で報酬を得ているからって考え方。*2


リュバック(弟子)

えーとですね、この人物を好きな人に怒られそうな気がするんですが、
「端から端まで自分のことばっかりだな!?」というのが彼への印象です。1幕も2幕もおんなじ。
彼の印象で強く残ってるのが「先生が心配なんです」、彼が何度も訴えるこれこそエゴの塊だと思う。「先生が心配」だから(自分の)心配を薄めるために行動する。その動機を先生に理解してもらいたがる。それだけ伝わればいいって内容の発言があったかは覚えてないんですがそういうニュアンスでぐいぐい距離を詰めてたような印象が残っている。
彼がしたことは「先生」を追い詰めただけに見えたけどね。立場もそうだし精神的にも、彼の「心配」は先生を窮地に追い込む結果を招いていなかったか。
あともひとつ、これは全く別の話なんですけど。リュバックの「心配する」と"信じてない"はよく似ている。告発(だよねあれ)した彼の訴える「心配」はテイヤールの信仰を疑っていることと同義だし、2幕はまあ正直消化できてないんだけど、テイヤールが自分の尊敬する「先生」ではなくなることを不安がっているように、もっと言えば「先生」でいることを強いているように見えた。
んーまあ普段なら愛だね!で片付けるんだけど、一個人に向ける執着と理想化はキリスト教でいう愛ではないと思う。


総長

そうちょう。この人、一幕は与えようとしてるのに二幕がすごく不穏で何だかおそろしかった。何がしたいのかがわからない。会のためでもない、検邪聖省に恨みもないのだとしたら、彼はなぜテイヤールを呼び戻すことにあんなに執心するのか。
イエズス会の利権のために動いてるんだったら納得なんですよ。さんざ煮え湯を飲まされた検邪聖省に抗する武器が欲しいって動機ならわかる。イエズス会が歓迎する理由はそれだし。でもあの人“もう総長ではない”んでしょ?んでたぶん、個人の意見より立場からの見解を述べなきゃならないのがほとほと厭になって降りたんでしょう?
「償い」って言葉が何回も出てきたけど、彼は何を償うつもりなんだろう。恨まれてもテイヤールを救うために北京への派遣を命じたんじゃないのか。それを清算したい"罪"だと思っているのか。
1幕でラグランジュと総長のやり取りを聞きながら、これこそ聖書に書かれた愛だと思ったのですごくすごく衝撃だった。人に評価されなくても神が知っていればいい、聖書の施しはそういうものじゃないのって。その行為が愛だからラグランジュも見逃したんじゃないの。*3
2幕の総長がしようとしていることがどうしても、自分の心を軽くするための施しにしか見えない。パリに戻ってくることを、テイヤールはもはや望んでもいないのに。


リサン

何がしたいのか、ある意味1番わかりやすい男でしたね……? ひとりぼっちは寂しいもんな。
ヒトの進化は神が不在でも成り立ちうることに気がついてしまった男。気づいてしまった可能性が確信に変わることが恐ろしくて科学に向き合うことができない。かといって、手放しで神の存在を信じることもできない。疑いを晴らすための検証をリサンは放棄しているから、可能性から一時目を逸らすことはできても疑念は心の内に残り続ける。
リサンが胸の十字架を事あるごとに握るのは、そうやって握りしめていなければ信仰が揺らいでしまうからなんだろう。神から心が離れないように懸命に縋り付いているようだった。
カトリックでは罪を犯したとき懺悔をして赦しを乞うんだけども、リサンにはその告解もできない。司祭が神の存在を疑ったなんて他者に話せるはずもない。話せたところで知識がない者との議論に納得解は得られないから、懺悔したところで救われない。
だからリサンはテイヤールに手を伸ばしたのだと思う。憐れみでも施しでもなく、彼のほうが求めていた。己の信仰を救ってくれる誰かを。
神に仕える者で、生物学と考古学の知識があって、誰にも話せない疑いが共有できて、信仰に落ちる影を映さないように振舞いあえる存在。彼の信仰を認めることで己の信仰の確かさも認められる、そういう鏡が欲しかった。求めよ然らば与えられん、聖書にもそう書いてある。
そう考えると可哀相な男だよな……。自分と同じ存在だと思ったテイヤールは、同じ知識を持っていながら神の実存を微塵も疑っていなかった。それどころか2年の歳月を経てなお、科学を追うことが信仰の道だと本気で信じている。リサンが「気づいて」しまったのは人より知識があるからじゃない、信仰が足りないだけだって突きつけられてるようなもんじゃん。テイヤールにそのつもりがないのが余計にキツい*4。面と向かって断罪されたなら反論でもそれこそ告解でもできたろうに、リサンの信仰に後ろ暗いところを覚えているのはリサンだけなんだよ。
「気づいてしまえ」とテイヤールを呪ったリサンは『同じところまで落ちればいい』ぐらいに思っていたんだろうに、信仰に影が落ちるどころかとんでもねえところまでぶっ飛んでった友人をどんな気持ちで見てたんだろうな。


ラグランジュ

悪役だと思ったら偽悪的だったという。幕間に取ったメモに“人が人を裁いてはならない”って書いてあって笑った。過去の私すごい嫌ってる。
“人は人を裁いてはならない”、1幕の印象はこれに尽きる。神の代行者のつもりなのか、何様だ、って。*5小枝を指摘する前に己の丸太を取り除けよって思ってました。マタイによる福音書7章。
2幕でテイヤールに言った「私の他に誰が寄り添うのか(うろ覚え)」を聞いて、ラグランジュは己の信仰と向き合う者に寄り添う者なんだなって思った。求める者に手を差し伸べる者。受け取られなくても。
神はすべてを見ているから行いは報われる、でも人は弱いから誰にも認められない中でも信仰を貫くのは困難で。だから道を外れないために検邪聖省が必要で、道を歩み続けるために他の者に見られないところで寄り添う彼が必要なのだろう。知らんけど。
ラグランジュは1幕では恨まれても救いを差し出す決断をした総長に寄り添い、2幕では御輿にまつりあげられそうになりながら神を求めようとするテイヤールの側に立った。1幕では公の場での弾劾として行った信仰の議論を、今度はテイヤールと2人だけで行ってるんですよね。扱いが異端者から兄弟*6になっている。
ラグランジュはテイヤールの信仰の正しさを否定して、でも信仰を願う心を否定はしなかった。感傷的なことをいうけど、それがテイヤールの救いになればいいなと思った。

余談だけど、このときの話の持ってき方を見るにラグランジュは相手に寄り添うのが本来めっちゃ上手な人なんだろうね。


テイヤール

この人に共感した方がいたら怒られそうなんだけど(2回目)ごめんさっぱりわからない。求道者であろうとしているのはわかる。その結果とんでもないとこに飛んでったけど。
「人はいずれ神に届く」、それはあかんやつだって。創世記を比喩だって言い切るのも当時の主流から外れる思想なんだけど*7、これは更にやっばいやつなんだよ。神の不在を疑ってしまったリサンでさえ血相変えるくらい。前にもわーっと語ったけど、人は神と同じものにならないように楽園を追放されたんだよ。創世記3章22節!創世記11章バベルの塔

リュバックに自分の十字架を掛けてやってから新しいものを手に入れた気配がないの、地味にぞわぞわする描き方だなあと思う。カトリックの人たち、ミサではない私的な祈りにロザリオ*8を使い、そしてそれを身につけて持ち歩くらしいんですよ。んで実際、リサンとリュバックは十字架をずっと身につけている。ラグランジュだってロザリオを身につけているっぽいのに*9、不安がるリュバックに十字架を預けたまま新しく身につけるでもなく自然体でいるテイヤールの在り方は、ロザリオを持たないまま「静かに祈れる場所」を望む彼の信仰も、なんというかかなり変わってるんではないかと思う。ラグランジュとの会話の果てにたどり着いた「『私の』神を探しに」、異端宣言以外の何物にも聞こえなくて心底震え上がったんですがはたして気のせいだったのか。


タバコと燭台

TLで皆さん仰ってるように、火は信仰のメタファーなんだろうと思う。聖書に出てくるモチーフがこんだけ登場する中で、ギリシャ神話に出てくるモチーフを信仰のメタファーに選ぶ攻めっぷりすごいな?って思ってた。
誰かの道を照らすための火を管理するラグランジュと誰かの火種を借りて自分の心を慰めるための火をぎこちなく灯すリサンの対比ですよね……。あとリュバックね、味方と思えば火種を貸すけど好感を失ったら返すよう迫る男。
ところで記憶違いだったらごめんなんだけど、1幕の後半に一度だけ、リュバックが燭台の火を消したことありませんでした?テイヤールの部屋の火を。

 

「Keep walking」

(脚本家の方の意図は存じ上げないのですが、)赤の女王仮説!とテンション上がった。歩みを止めた者から滅ぶ。種間競争による共進化の説明に使われたりもしますね。相手より一歩先を行く、追い抜かれて次の手を編み出す。そのイタチごっこを放棄した種は文字通り食いものにされて絶滅してしまう。

学問の探究と信仰の探求を結び付けたテイヤールは、その先に何があっても足を止めることができなくなったんだよね。たぶん。学問の真理を見失うだけじゃない、足を止めれば神の不在への疑念に飲み込まれてしまう。歩んできた道を振り返ってもそこに"彼の"神はいない。

探究の足を止めることで信仰にしがみつこうとしたリサンとの対比なのかな。あるいは、先生を「待ち続け」るだけで自分は一歩も踏み出さないリュバックとの。

*1:それをしないとどうなるか、ジャンヌダルクになるんではないでしょうか。

*2:施しは自分が生きるために必要な分は残してするんだよってことも言ってる。足るを知りなさいってことなんでしょうね。

*3:聖書には1人の敬虔な者のために不信仰の町を滅ぼすことを止める神の話がある。

*4:司祭が敵の死を願ったなんて告白を守秘義務のある「告解」ではなく「世間話」でするくらいには、テイヤールはリサンを無防備に慕っている。

*5:人を裁くのは神の行いなんですよ。神の被造物を好き勝手に評する権利は人にはない。

*6:信徒どうしを兄弟と表現する

*7:現代では旧約は神話、新約は事実の記録と捉えるっぽい(牧師さまのお話の受け売りなので少数派の解釈ではないと思う)

*8:十字架と珠がセットになったもの。詳しくはググってくれ。

*9:服の下に見えた大きな茶色の珠はロザリオだと思う