つまるところ。

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フランツとルドルフの父子がしんどすぎるという話をしたい。

拗らせたオタクが感情のやりどころを失っているだけです。すごく好き。

ミュージカル「エリザベート」のフランツとルドルフについてであって史実の彼らについてではないです。史実のフランツ1世はそれなりに幸せだったんでないかと思う。*1
文脈はなく主観に溢れているから信じてはいけないぞ。あとネタバレ満載です。

 

 

 


ルドルフ。寂しがりやの皇太子さま。
父は多忙・母は不在の宮殿で孤独に膝を抱える彼を見つけてくれたのはトート閣下だけで、大人になった彼の"愛"を受け取り同じものを返してくれたのもやっぱり閣下だけだった。ルドルフが向けた愛を若きシシィは気にかけもしないし、老いたシシィは逃げてしまった。ルドルフが抱いていた望みはずっと「ぼくをひとりにしないで」だけだったのに、誰より愛しく思っていたママには終ぞ届かなかった。
ルドルフ。ルドルフ殿下。あのね、
お前に似てるのはママじゃなくてパパだよ!!!!! 君は知らないだろうがその願い、フランツがシシィに向け続けているものとおんなじだからな!!!! 
シシィに望むことが"夢を見よう"や"一緒に楽しいことをしよう"じゃなくて"ただ側にいてほしい"なのがもうほんとフランツの息子。"国のために心を殺すから"自分を見てほしいと訴えるところも本当にそっくり。いいかルドルフ、シシィは他人に「ただ側にいてほしい」なんて望んだことはないんだよ(少なくとも言葉としては)!! シシィが望んだのは縛られずに選ぶことだ!!!
ルドルフがする選択は国を救う(少なくともルドルフだけはそのつもりだった)ために自分を使うこと、嫌な言い方をするなら使い潰すことなんですよね。“ハプスブルクの”ために生きて個人より国を優先して、シシィが側にいてくれることだけを、個人としての自分に許される唯一の願いだと思っている。それ以外の自分を全て国に捧げて、そうするために心を抑えて。個人としての望みと国を守る責務を区別できなくなるほどまで己を削って。
フランツの生き方そのものじゃねえか。
ルドルフはママの鏡でいるつもりでいたけど、彼と価値観や精神性が似通っているのは間違いなくフランツのほうなんだよ。ルドルフもシシィも気がついてないか言及してないけど。フランツは間違いない意識してない。あの人自分の心がどんな形をしてるかなんてもう覚えてないでしょ。


ハプスブルクの名誉の為に」フランツが言い募るルドルフを制した、おそらく彼らには最も強制力を持つ言葉。家の名前なんかの為に自分の心を殺せだなんて、シシィなら絶対に引き下がらないだろう論理。でもルドルフには通じるんだよ。激昂したフランツから飛び出した刃をルドルフは同じ重さで受け取った。
私この時のフランツは怒ってるんだと思ってる。本人は「強く厳しく冷静」でいようとしたのかもしれないけど、冷静どころか裏切られた哀しみをよく解っていないまま憤りにすり替えたように見えた。皇帝として在るべき彼は、叛逆者に国を守る者が持つべき感情しか選べないから。事を放置して哀しむことも叛逆者を哀れむことも皇帝には許されない。
そういえばさ、フランツが泣くのはシシィのことだけだけどフランツを苛立たせるのはルドルフだけなんだよね。若くて世間知らずで他人の悪意もまだ見えないルドルフがぶつける批判を、フランツは真っ向から受け止めて否を返す。未熟だと軽くあしらえばいいのにできない。たぶん、彼が家族だから。たった一人の息子だから。ルドルフも特別なんだよ。*2いやもちろん彼が苛立ちを顕にしたのはルドルフがフランツの傷口をこじりにいったからってのもあるだろうけど、それだって普段の彼なら黙って耐えてしまうでしょう。見開いた目を痛みに眇めながら。傷ついた痛みが憤りに転じるのはルドルフと、あとは晩年のゾフィーが相手のときぐらいだったと思う。皇帝として在ることを強いられて己にも強いて生きてきたフランツが感情を抑えられないほど深く傷つけることができるのは彼の家族だけなんだろう。
まあフランツもルドルフもふたりして皇帝と皇太子としての相手しか見えてないけどな!!! 個人に!個として!!向き合え!!!無理だね知ってる!!!!
ルドルフきみの鏡は間違いなく皇帝陛下だよそっくりだよ君たち……その鏡は息苦しいと感じる心すら殆ど殺してしまっているけど……。フランツはシシィを想うこと以外、己に自由を許していないからなあ……。


鏡って言ったけどルドルフはある意味フランツより自我がなさそう。フランツは殺してきた心の隙間に皇帝としての自分を入れているけど、ルドルフはそれをも持っていないんだよね。皇族として生きるため与えられるはずだった教育はエリザベートが止めてしまった。代わりに愛を注いでやればよかったろうにお城にひとりぼっちにしておいたから、ルドルフは個としての自分も皇族としての自分も満足に育たなかった。空回りする義務感とシシィへの渇望を抱えた空っぽのお人形。彼には自分の意思がない。だからあんなにも簡単にトート閣下の言葉を埋め込まれてしまう。ハイライトだと思ってるので何回でも言うんですけど、闇が広がるの後半でルドルフも「救うのは“お前”だ」って歌うんですよ。「私だ」じゃないの。死が囁きかけた誰かの言葉をなぞっているだけなの。それをあんな自信に溢れた声で、内から湧き出てきたものみたいに歌うの。自己と他者の境界が全く作れていない。もうちょっと自分というものを持ってほしい。
たぶんだけど、そもそもルドルフはなりたい自分と理想の国家の区別もついていないよね……。自他の境界どころか自分と国家との境界があやふやなんだよこの人。若き皇帝フランツだってもうちょっと境界しっかりしてたぞ。いやまあ彼だって自分の全てを国家のものだと思ってた(思ってる)けどさ。
ルドルフとシシィのやり取り、「打ち明けるよ」と言いながらルドルフがシシィに話した内容は「国家の危機」だけなのやばくない?シシィが触れたのはルドルフの考えてることなのに己のことを何一つ話していない。自分と国家が区別できていない。君の居場所のなさは国に縛られてることじゃなくて国とひとつになれないことなんじゃないかもしかして。おまけにルドルフ、シシィにハプスブルクを救ってほしいと乞うんですよ。己の自由ではなく、国を救いたいという哀願。あれは謙虚でも自己犠牲でもなくて、ルドルフは本当に自分と国家の区別がついていないんだと思う。
そりゃシシィは逃げるよ。自分と自由を犠牲にして国を救う、ルドルフの哀願は彼女が戦ってきた王宮のしきたりとおんなじじゃん。ルドルフにその気は全くなかろうけど(彼はこの願いと自分を助けてほしいって願いの違いがわからないと思う。)シシィのトラウマを正面からぶん殴ってるようなものだぞ。そりゃ無理だ。
この点においては個人としてシシィを求めるフランツのほうがなんぼか健全。自由の意味が悲しいほどささやかで、それなのにその願いがちぃとも満たされてないけれども。


そもそもフランツ父子とシシィは愛の意味が違うんだよな。
フランツやルドルフの愛は「ただ側にいてほしい」じゃないですか。互いに寄り添いあうことで、辛いことばかりの生に一時の安らぎをもたらす。一人では耐え切れない苦しみを和らげて生きていくというか。
シシィにとっての愛って「喜びを共有する」なんじゃないかなって思ったんですよね。大好きなパパのすることが「全部好き」だった彼女は、自分の楽しいことを一緒に楽しんでくれる相手とするのを愛だと思っているんでないかと。踊りたいときにひとりで踊る、でも同じ時に同じ音楽で踊れるもうひとりと出会えたら素晴らしいことじゃないかしら。どちらがどちらに合わせるのでもなくて、楽しいことをしているもの同士が楽しいねって笑い合う。シシィはそれがしたかった、フランツとならそれができると思っていたんじゃないかなって。シシィが最初に見た彼はまさにそういう青年だったから。あれがフランツにほんの束の間許された息抜きだとは、まあ、思えないよねえ。あの頃のシシィはパパも自由に生きていると思っていたんだろうし。シシィのパパ、確かに自由な人なんだけどするべきところはきちんと押さえてるっぽいんだよね。(建前は)妻の姉妹とのお茶会はさぼっても式典はちゃんと出て挨拶周りも付き合って。最低限の義務は果たしている。
他にもね、シシィを連れていかない冒頭のお出かけ、外してみせた帽子の中に紋章が見えたんですよ。白地の布を張ったところに緑の線で描かれた紋章。あのお出かけ、道楽じゃなくて彼のお仕事だったんでないかな。少しでも“有意義”にするためにお楽しみを設けたり楽しいもののように振舞ったりしているけど。もし本当に遊びだとしたって紋章が入った帽子を身につけていくくらいには、彼は自分の立場と求められるものをきちんと解って受け止めているんでないかなあと。

*1:史実のフランツについては田代さんがこの本を推薦してました。シャンテにある。

*2:近親憎悪だったらどうしよう。