つまるところ。

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エリザベート21日ソワレ感想。ではないかもしれない。

古川さんトートと山崎さんルキーニを初めて観たのでちょっと褪せる前にですね。すごいね印象が全然ちがうね。楽しい。

 

古川さんトート閣下。

こいつはやべえ(好意の表現です。)
降臨する瞬間の印象は就任したての王子様みたいだなーだったんですよ。柔らかい表情の中に品の良さと親近感すら漂う瑞々しい可愛らしさがあって。あの親近感はフランツやルドルフみたいな張り詰めた余裕のなさがないからかなーと思っている。存在そのものを愛されて育った者特有のゆとりみたいなのがある。
この第一印象は間違ってなかったと思ってるんですが、しかしだからこそやべえ感すごかった。死に善良も何もあるのかって思うんですが、このトート閣下は悪意とか作為とかそういう"害をなそうとする意思"みたいなものもまだ知らなさそうで、それゆえに怖ろしい存在だった。人間のことを愛していて理解していない神さまがいるとしたらこういう存在だと思う。閣下の無垢な素直さは、莫大なチカラを持った上位存在の幼生を思わせる。自分がシシィを好きだからシシィも自分を好きなはずって考え方、幼子の思考とよく似ている。小さい子って大好きなぬいぐるみが自分を好きだと疑ってないじゃない。トート閣下からの人間へのアプローチ、それと近いものに見えるんですよね……(好きです。)

古川トート、少年ルドルフが「ほんと?」って喜ぶとつられてか嬉しそうに笑うんですよ。しょんぼりしていた少年の弾んだ声に顔をぱあっと明るくする。ともだちが嬉しそうだから自分も嬉しくなっちゃったような打算のない無垢さに見えて、きらきらした愛らしい光景で怖ろしかった(賛美です。)足のほうからひんやり上ってくるこわさ。死の帝王がヒトの仔いっぴきの感情ごときで心から喜んじゃうんですよ。対等なおともだちになってる気でいるんですよ。いや怖いでしょ。ルドルフはシシィと違って思い入れがあるから干渉した存在でもないのに。力や価値観の隔たりを越えて友達になったなら美しいけど違うでしょそれ、自分とルドルフが違うことを分かってないでしょ。

大人になったルドルフにも同じテンションで接している、ように見える。ともだちが困ってるからたすけてあげよう!(シシィはこっちを見てくれなくて暇だし、)くらいの行動動機で動いてない?
腰を抜かしてずりずり後ずさるルドルフに詰め寄るときですらなんで?ほしくないの?たのしいよ!みたいな無邪気な動機に見えてですね、やめてやれヒトの仔こわがってるから(大好きです、もっとやってほしい。)
井上トートには唆す色があったんだけどさ、古川トートは本当に、純度100%の厚意でやってる気がしてくるんですよね……。こう、破滅に向かって進ませている意識がさっぱりなさそう。ルドルフを革命家たちに紹介するときも、挨拶している彼をちょっと離れたところから満足そうに眺めているんですよ。ともだちが楽しそうで僕もうれしいよ、とでも思ってるんじゃないかこの閣下。

いやー楽しいですねこの閣下、ヒトの感情と似たような表情を浮かべるからヒトに近いものみたいな気がしてくるのに、行動動機がわけわかんなすぎて人ならざるものだってことを否応なしに理解させられる。カブトムシに人間の考えてることが(たぶん)わからないように、人間の価値観ではトート閣下の思考に共感することはできない。閣下にとってヒトの死はお引越しくらいの感覚なんでないかな。
自由がないの?そっか、たいへんだね。ぼくの国に遊びにおいでよ!ぐらいの軽さで死にいざなってそう。

ところで今回は古川トートと京本ルドルフの組合せで観たんですが、お顔立ちの系統が近い(ように見える。ヒトの顔をあんま識別できてないから違ってたらすまない)のもあって対等っぽさが強くて楽しかったです。


山崎さんルキーニ。

何あれ、なにあれすごい。すごかった!
エリザベート」という物語の指揮者、100年間続く舞台の監督。彼の指揮する舞台のなかで、トート閣下だけが独立した存在として君臨している。山崎さんのルキーニはそういうものだと思った。何故そう感じたのか、直観の理由はうまく言えないけれど。
まったく理屈のないことを言っているね。でもそう感じた。それを言葉にできるほど落とし込めていない、あるいはそのために必要なことができるほど落ち着いていられてないけれど。
(少なくても私にとって)言語化は引き起こされた情動の再現性を上げる行為でそのためには受け取った衝撃の解剖が必要なんですが、解剖して元の形に戻しても完全にはならないので。かといってそのままだと風化してしまうので難しいですね。どちらも怖ろしい。うっかり自分事を話してしまった。そのうち書き換えます。

山崎ルキーニを指揮者だと感じたの、仕草もなんだけど一番はお歌だと思う。場面転換。声色も声量も見て取れる何かが変わった気はしなかったのに、紙芝居がめくられるように空気が変わっていく。彼が物語を回している。歌で場を支配するってああいうものを表すんだと思う。
いっちばん強く印象に残ってるのが「皇后は気付き始めた」のところ。何が変わったのかわかってないんだけどとにかくルキーニが空気を動かした、と思う。シシィもフランツも場にいてそれぞれ動いているんだけど、場を決めているのはルキーニだと思った。
あとねあれね、山崎ルキーニは劇中でも「トート閣下の信仰者」なんだと思う。人間に関心がほっとんどなさそうで、人間を眺める目に熱がない。トート閣下を見るときだけ熱量が宿る。序章で目がきらきら輝いてるからそういう人物なんだと思うじゃん?そんなこと全くなかったから。冷静に見定めながら物語が行くべき方にゆくように監督してるみたいな。(己を含めた)人間を下位存在とみなしてるようで、でももしかしたらそれすらないのかもしれない。侮蔑すらも持ってなさそうだった。我々がお箸やテーブルに侮蔑の感情を持つかって言ったら持たないじゃん?そういう感じ。場面によってはにこにこ営業スマイルしたり共感を示して宥めたりしてたけど、びっくりするほどルキーニの感情が読み取れない。唯一読み取れたのはカフェに初めて閣下が現れたときかもしれない。「ご恩を忘れたことなどありません!」に間髪入れず舌打ちしたときの強い苛立ち、ここにいるの「ルキーニ」だ!?ってなった。*1

なんかもう今回でいっぺんに山崎さんのルキーニがだいすきになってしまった。*2 すごかったんだよ。

*1:成河さんのルキーニに「その場にいた誰か」でもあるような印象を持ってたので余計に驚いた。

*2:ある表現においてレベルが高いらしいということと好みだということ、好きになるということ。ぜんぶ別のことだと思う。