つまるところ。

観劇や演奏会の感想を置いて行く場所。だって青い鳥には推しがいるから。もっと雑多なログもある。 https://utayomichu.hatenablog.com/

あの、わりと寂しいんですが。(BLUE/ORANGE感想)

BLUE/ORANGE、終わりましたね。おめでとうございますお疲れ様でした。大変楽しい時間でした。えぐいくらいの生々しさで(賛美です。)
劇場に行ってももうあれは上演されていないということに途方に暮れています。


あ、これいつもの仕草や台詞の書き留めはほとんどないと思う。作品名あげといて恐縮ですが作品の感想になるのかも知らない。完全に自分用です。
思考メモリを埋めてる不定形で質量のある虚無感を形にしないと立ち直れないんだよ。これがロスってやつか。

 

 

 


あの作品は結局、結局なんだったんでしょうね。最後までわからないままだった。
まあなかなかトチ狂った通い方をしてたと思うんですが何に情緒を殴られたのかわからないまま行ってたし、今もよくはわかっていない。これまでもアレな通い方をした演目はあった*1んですが、どの瞬間にいわゆる「沼に落ちた」のか自覚はちゃんとあったのに。というかその瞬間があったから金と時間を突っ込むほど"ハマる"ものだと思うのに。この作品、どこがそうだったのか本当にわからない。あるいは全てだったのかもしれない。

魅力的な演目だと思うのに、何がとか何処がとか、具体的にしようとすると途端にわからなくなる。そんな作品だった。
すごいものを見せられている、漠然とそんな意識はあったけれど、なんでそんなに好きなのかは結局わからないままというか。好きって言葉より目を離せないというほうが近かったように感じるくらい。小劇場なのもノンマイクなのも軸は変わってなさそうなのにどんどん変わっていくのも全部ひっくるめて、今だけなんだって衝動に突き動かされていたような気がする。
今ここにあるものが全てだって生々しい臨場感、彼等がここに存在しているという問答無用の説得力、それが、それに触れたくてあそこにいたのかもしれない。


わからないわからないと言っておいて難なんですが、お客にすごく親切な、わかりやすい作品だったと思う。何が起こっているのかがものすごく分かり易い。初日からわかりやすかったんだけど日を追うごとにどんどんわかりやすくなっていった。*2そしてその分かり易さは言語によるものではなかった、と思う。
ほら、職場でも家庭でも赤の他人でもいいんですけど、揉めてる人のやり取りって聞き流しててもなんとなく状況がわかるじゃないですか。別れ話だなとか他人の陰口言ってるなとか。あんな感じ。自分は文字をがっつり聞いちゃうので試してはないんですが、たぶんあれ、台詞の意味を聞き流してても結構な部分ついていけるんじゃないかな。反対に、聞き流しちゃいけない部分は否応なしに意識が向くようになってたような気がする。

その分かり易さゆえにあの演目、勧める相手をめちゃめちゃ選ぶ作品だったと思う(好きです。) 舞台もので情緒を殴られて沼に落ちた経験のある人ならそこまで心配しないけど、初めて観劇する人に勧めるのはちょっと慎重になりました*3ねあれね……孕んだエネルギーが強烈なんだよ……。あの衝撃は誰にでも伝わると思うんだけどそれ故に誰にでもお勧めできる品じゃなかった。相手によっては、あるいは精神状態によっては刺さりすぎて立ち直れなさそう。
なんというか、シンプルにおいしい激辛カレーみたいというか。シンプルにおいしいカレー、材料や製法がシンプルだとは限らないし(むしろその逆だろう)おいしいことと飲み込みやすいことは一致しない。辛いし。辛くなくすれば誰でも飲み込めるのかもだけど辛くないカレーはもうカレーではない。みたいな。そういう感じだった。中盤で少しマイルドになったかなと思ったんだけど終盤でまた加速しましたよね。いやまあそれが好きなんですけど。衝撃を受け止めるのに胆力が必要な作品、あるよね……。


アフトクショーの話。
時間配分まできっちりされた台本をその場のノリで変更したような流れでしたが、たぶん前もっての打ち合わせはしていたんだろうなあって印象。お客相手とはいえトークショー中のやり取り、誰かが考えてつくったことを軽く扱うようにはあんまり見えなかったので。
ただまああの企画の狙いというかどこに持っていきたかったのか、発信されてたであろう情報を初めじょうずに受け取れなかったんだけど、キャストさんの発信してる情報回って*4なんとなく推測はつけた。

作品を観て考えて、感じたものを発信して、共有されたそれらに応えて。そのやり取りに更に刺激を受けて、また共有していく。より深くまで、より高くまで。
そういうことをやりたかったんじゃないかな。背景も目的も感じたものも様々だろう、たまたまそこに集まった皆で、一緒に。

演目そのものでも思ったけどここのカンパニー、観客のことすごい信頼していると思う。だって期待するって信じることだ。この人たち、受け取るこっちがちょっとびびるくらい信じている。こっちって主語大きくしたけど別にそんなもの感じてなかったらごめん。私があの熱量を、空間まるごと使って揺さぶってくるエネルギー量なのにあえて唯一解を提示しなかったようなあれらをそう受け取ったってだけのことだ。

あの方達はたぶんお客のことをものすごく信じていて、垣根を越えて一緒に飛べると思っていて、だから下手に指示を出して縛りたくなかったのかしらと思っている。ただ全く制限がないって反って不自由で、人間ってある程度は枠を示してもらったほうが動きやすいんですよね。経験の少ないことをするときは特に。何というか、ただ良い絵を描けと言われるより好きな果物をおいしそうに描けと言われるほうが自分が何したいか考えやすくないですか。そういう感じ。*5

個人的に21日の雰囲気がすごく好きで、時間と他のお客さんの存在を見やすいように示しただけでああも噛み合って回るようになるの、すっごいなあと思って見ていた。あれお客さんがすごいのかキャストさんがすごいのかわっかんないけど。たぶん両方だと思う。
皆がわくわくしていたように見えたし、キャストの方々も一番のびのびしていたように見えた。ルールって言ったら堅苦しいかもしれないけど、みんなが場のルールを共有して、同じほうを目指しているような安心感。安心してなきゃ先導する側が楽しめる余裕はできない。と思う。

 

 

こっから先はもはや感想ですらない。ないんですがこの一か月である意味一番インパクトを受けたというか価値観が揺らされたので書き止めとくだけです。

演目を観てアフトクを観て、というかその応答を聞いて、今まで観劇クラスタ*6の感想?や考察?を見ていてなんか感覚が違う……? と感じていたものにひとつ腑に落ちた気がした。違うっていうのは良し悪しではなくて、同じ言葉で認識しているものなのに、認識の根本に差異があるような違和感があったんですよ。
なんかね、今まで感じてた感覚のずれみたいなものはこういうことだったのかなって思った。

多くの彼等にとっての解釈・考察っていうのは、戯曲の作者や表現者が見せたかっただろう答えを探しにいくことなのかな、ということ。変な言い方をすれば"考察"の果てにはひとつ「正解」があって、それにたどり着くための過程に論拠や説得力はさして求められないのかな、ということ。根拠は作品の要素ではなく自分の感情にあるような。それで、それが?良しとされる文化なのかな、と。望まれる見方というか。

自分の中での論拠がぼんやりしてるままに喋ってるから背中がすごくきもちわるいんだけど、でもなんか、そういう感じがしたんだよ。というか、観劇というものの"解釈"、"考察"がそういうものなら納得がいくというか。演劇というものが感情で捉えるもので主観で答えを出すもので、変な話、それが望まれた見方、方向性だとするなら、なんとなく、納得がいく。良し悪しでも優劣でも好き嫌いでもなくて。感想と"解釈"が地続きなのかもしれないっていう、その発想そのものがなかったので驚きだったし、そうだとしたらなるほどなって腑に落ちるものがあった。あのシーンがこうだったから、みたいなものを見かけないのは一回一回変わる可能性があるナマモノだからってだけじゃなくて、そもそも要素から論を導き出すことに頓着しないというか、特に歓迎されない(と言ったら言い過ぎかもしれないけど。価値を見出す人が少ない?)文化なのかな、と。
うーんこの句読点の多さ、咀嚼も消化もできないで喋ってる感満載ですねすみません。


自分のブログだし好き勝手に自分語りをするんですが私そもそも観劇クラスタじゃない、というか守備範囲が完全に二次元のオタクでして。*7考察というか解釈はちょいちょい手を出してたけどそれもどっちかというと解析班寄りというか、作品から要素を見つけて共有できる形にまとめるって楽しみ方をしてた*8。考察の根拠になりうるピースを探す作業とでもいうのかしら。
一番深くのめりこんでた作品の公式さんが、解釈は自由、二次創作も自由! 自分の考えと違うからって他人のそれを否定はできない! っていうのを発信してくださってる*9(と思っているファンも多い)ので、まあ本当に多様な考察があるんですね。人の数だけ正解があって、公式もおそらく意図的に唯一解がないような演出をして。だからあの作品でファンが共有しているのはたぶん、作品の中にある要素だけ。それすらもコンサートでは回ごとに演出が変わったりするのでシュレディンガーの猫みたいに両立しない答えがある。好きなピースを好きなように組み合わせて自分の好きな絵を描く。人によって絵が違うのは当たり前で正解も良し悪しもなく、あるのはそれが自分の好みかどうかだけ。好みでなければそういうのもあるんだねってスルーすればいいんですよ、違うことは間違ってるわけじゃないんだから。*10 見えている世界が違うことが前提にあるから、誰かと価値観を共有するためには作品のここを見てるよ、この要素をこう解釈したよっていう、言ってしまえば論拠みたいのを交えながら話す必要があった。
自分にとって作品解釈というのは、考察というのはそういうものだったんですよ。論拠を引っ張って提示することは、分かち合うために必要なものだった。
だからこちらの界隈であそんでて違和感があったんだ。ずっと。
と、いうのがわかったのが個人的には一番の収獲で衝撃だったんですが、まあ本当に個人的なことですね。言葉に依存している生き物だから、言葉の定義が揺らぐことにいつだって強い衝撃を伴う。
何回も言うけど良し悪しでも優劣でもないです。ただ違うというだけ。それをやっと言葉で理解できたというだけ。

*1:メタマクd1とかラブネバとか。

*2:あれよりわかりやすくなるなんてありうるの!?でもなってる!!どうなってるの!?という新鮮な驚きがあった。なんだったんだあの体験。

*3:ミュージカル初体験の友人を成河×福士ペアのスリルミーに誘った人間が言うことでもない気がする。

*4:そういや公演期間中にそのキャストさんについて調べたの初めてだよ。

*5:もうちょい強い喩えをするなら、飛んだこともない鳥をいきなり空に放ったら落ちます。渡り鳥でも若鳥は先導されるまま飛ぶんだから。

*6:ついった界隈、特定の対象に興味があり発信する人の(内輪の)集まりをクラスタって呼ぶ。たぶんスラング

*7:カタルシスを大きくするために挟まれる必要性のない人格disがとにかく受け付けず、生身の人間が映る作品って何故かそういうのの割合が高いので見なくなった。今も見られない。

*8:言葉のチョイスでどこの王国か分かった方もいらっしゃると思いますがそっとしてやってください。

*9:すごいよ作品の中にそのメッセージぶち込んでお話として成立させるんだよ。鬼才か。

*10:キャラクターの名前が間違ってたら耳打ちしたりはする。