つまるところ。

観劇や演奏会の感想を置いて行く場所。だって青い鳥には推しがいるから。もっと雑多なログもある。 https://utayomichu.hatenablog.com/

'19LNDの放送とかないんでしょうか

CDもいい。あのキャスト陣で1幕の四重奏と負ければ地獄カルテットがほしい。

ついったでわーっと言ったことのまとめです。だいたい自分用。
※あくまで個人の(だいぶ意図的に歪んだ見方をしている)感想であり、強度の幻覚が入っていることをご承知おきください。広げられた情報から好みのものを選び見たい絵を描くというのが私の作品鑑賞ですつまりオタクの妄想というやつだ。

私はまだアメリカの黒い夜の海から上がってきちゃいないんだよ……たぶんオタクやってる限り上がらないと思う……


脚本・演出・役者さんの演技、どの段階から盛り込まれたのかは知らないんですが、LNDの伏線はミュージカルオペラ座から持ってきてるのにキャラクターの人格は原作読むと兆候はあるな…って気はしてくる変わり方なところすげえな!?って1年越しに思った。

猿のおもちゃ、ダイヤの指輪、音楽がわからないラウル*1、クリスティーヌの「手を繋いでいて」、右手で顔を覆う仕草。この辺りだいたいミュージカルオペラ座のオリジナル要素だと認識しているんですが、LNDはこれらが随所に覗くんですよ。*2それでいて、マダムの怪人がもつ才能への心酔とかラウルのうじうじしたところや言ってから後悔する虚勢とかファントムのクリスに母のごとき愛を求めてるところとか、彼らの変わり様は(特に"好ましい性質とされなさそうな"変化が)原作の彼ら確かにそういう面あるよねって感じなの。原作時空とは異なるもしもの世界としての完成度がすごい。いやまじで。ミュージカルオペラ座では長大な物語を3時間に収まるように澄んだ断片を選んで枠組みに使い色付けし、LNDは前作では長編小説を3時間で綺麗に整えるために取り出さなかった部分を抜き出し画材にして好みの絵を描いたような、セルフ二次としてのクオリティはガン高だと思う(妄想です)
1作目で各人物がした成長がぜんぶリセットされてたり生身の人間が持つような醜い心の一面をごりっと見せる一方で現実そんな都合良いか??ってリアル度低めのあらすじで落差のでかさにどの程度のリアリティとして見るか心の準備が難しかったり、ぶっちゃけ人を選ぶ(1作目が好きな人ほど納得できるできないで好みが大きくわかれる)構成だよなと思うけど。そういうところもセルフ二次としてのクオリティ高いと思う。共感も反発も生まない創作ほど無力なものってなくない?という自論。


主要キャラクターが生身の人間の持つみにくさとかめんどくささを全面に引っ張り出されている中で、LNDクリスティーヌはべらぼうにうつくしい女(顔ではなく)(顔も美しい設定だろうとは思う)として描かれているので夢を背負わされているなあって思う。某国民映画シリーズ*3における「母」概念みたいな、強烈な執着と憧憬を感じる(受け取り側の妄想)
彼女に人間らしさがないかと言えば否なんだけど、作中の価値観において"瑕疵のない"、物語の大前提になるファントムとの不貞*4を除けば落とされる理由がないのはメインキャストでは彼女とグスタフ*5だけなんじゃないかな。マダムジリーがある意味それなんだけどほら、娘を売ったっていうどでかい瑕疵があるからさ……*6

原作オペラ座のクリスティーヌは年相応にめんどくさい*7女なんですが、LNDのクリスティーヌは10年前の、ミュージカルオペラ座の彼女から変わっていないんですよね。彼女だけベースになってるのが1作目で取り出された上澄みのほうの人間性なようにも見える。天秤の片方だけは選ばない(選べない)、その優柔不断のかわり原作の秋空のように心の揺れ動く年相応のめんどくささはない女。
クリスティーヌは選ばないんですよ。手を取り離れはしたけど片方を選んではいない。10年前の月のない夜にファントムの元を訪れたってつまりそういうことでしょ? 光の下で生きてほしいと願ったファントムの愛そのものを拒んではいない。ラウルを選びファントムを手放したのではなく、どちらの愛(こう生きてほしいという願いと言ってもいい)も受け入れた。10年前に天秤の両皿にあったのはラウルとファントムで、今は愛と音楽だっていうだけの違いなのでは?というかラウルが家族の象徴でファントムが音楽の象徴となってるなら皿に載ってるものすら変わってないのでは(強めの幻覚です)

ただまあ個人の印象なんですが、LNDクリスティーヌは心のなかで愛と音楽の区別ができてなさそうな感じが…する……。入り口は一応異なるけど概念として不可分に混ざり合ってるというかそもそも彼女の中では別のものではないというか。漢数字とアラビア数字みたいな。誰かを抱きしめることと誰かを想って歌うことに異なる意味があるとは考えなさそうじゃないですか彼女。愛することが音楽になり音楽で愛を伝えるなら、10年前にもましてどちらかを選ぶ発想に至りにくそうだなって思った。違いがわからないのにどちらかを選べ選ばなかったほうは喪われるって無理ゲーじゃん? なお私は「芸術は理解できない」って吐き捨てていたラウルに「愛は死なず」が"届いてしまった"回(かわいそう)(とても好き)(受け手の妄想です)を最推し回としているのでクリスティーヌは10年前と同じ選択(どちらかだけを選ばないという選択をし実際に適った)が成ったと思っています。

やーもうここまでくるとだいぶ幻覚の強度が高いっていうのはわかってるんですけどね?ラウルのそういう仕草見たの1度だけだし。でも耳を覆ってぎゅっと目を瞑って小さく首を横に振るあの回のラウルにクリスティーヌの音楽は確かに届いていたと思いたい。彼女だけがファントムに愛への理解を与えられた*8んだから彼女の歌からラウルに音楽への理解が与えられてもいいじゃない……。
でもその仮定だと別れの手紙の意味が「彼女が歌いファントムとの賭けに負けたから手を離す」ではなく「自分では導けないとわかってしまったから手を離す」ってことになるんですよね……。
でもって「自分が持ちえなかったものをクリスティーヌに与えられたことで、自分の与えられるものでは彼女を幸せにすることができないと分かってしまった」から「クリスティーヌの明るい未来を願って自ら彼女の手を離す」ってオペラ座ファントムそのものなんですよね……。

解釈に正解はないというのが持論ではあるんですがそれはそれとして、「彼女から与えられたものによって(かつての恋敵と同じく)自分では彼女を幸せにできないとわかってしまったから」最愛の人の手を離す、構図として美しくかつ心を強く揺さぶると思うんですよ……。

*1:原作だとラウルは少年期に天才的なリュート弾きだったクリスティーヌパパにバイオリンを習っている。

*2:音楽もそうらしいんですが、私はLND公演終わってからオペラ座見たのでいまいちわかってない。

*3:ほのぼのストーリーと見せかけて異界に接続したりカミとの契約が出てきたりするあの作品たち

*4:これも結婚前だろうから厳密には不貞ではないし、時系列がラウルが助けに来る前だったら瑕疵にすらならない

*5:初登場のオリキャラだから視聴者に反感を持たれるわけにはいかない

*6:原作のマダムはファントムのためなら本当に何でもしそうって言うのがまたタチが悪い(賛美の表現)と思う

*7:怖気づいたり意地を張ったりで中盤まで意思が一貫してない。でも人間ってそんなもんじゃん?

*8:10年前におまえは何を得たのかと毎回言いたくなるんだけどそれを言ったらおしまいなので……