つまるところ。

観劇や演奏会の感想を置いて行く場所。だって青い鳥には推しがいるから。もっと雑多なログもある。 https://utayomichu.hatenablog.com/

ミュージカル「クロスロード」のキリスト教ネタを拾うの巻

ツイッタできいたらご希望あったので書きました。トゥギャの整理と焼き増しです。

個人の解釈であり感想でしかないぞ。いいか私を信じきるなよ。
そして先だって言っておくんですけど、ないと思うけどこのブログを持って(not誤字)絶対に公式に突撃するなよ過去にあったんですよ……マジでやめろ……。向こうがいいよと言ってくれても俺にとっていい迷惑です。
調べ足したやつや脳内HITした参考文献は注釈にリンク張っとくので、ご自身で資料のぞくとかせめてお友達と話すとかに収めてくださいね。

なおTLが不穏になってきたので私の今期への印象はこれだってことは記しておきますね……。歌唱とホンと符牒は絶品、でもここ数年で幾つもの商業ストプレ演目で批判されてた事柄*1の典型だよね、と。

他人の褌借りて1postにすると、無限にあるはずの解釈の自由を排して演者のそれのみ正解とする状態を以て私は排他的と呼ぶし、初めての観劇にも勧めない(演劇をそういうものだと”私は”思ってほしくない)です。
— 巣谷⛩ (@stanigh) 2024年5月3日

いちおう言っておくけど私は確かに茶番を茶番としか思わないマンですが、「ここは日替わりギャグ用場面です」が固定されてるぶんには特に何も言わないですからね 東京の客(の一部)は飲食と私語の時間として扱うので場所統一でも嫌厭するけど……新感線は大阪で観るのが一番楽しいと思うのはこれが理由

— 巣谷⛩ (@stanigh) 2024年5月6日

音楽の悪魔おビジュ編

◆左右非対称の髪型

 長い髪のパーツを左は一房垂らし右は全て後ろに流している。初演からこうだったのでこれは標準ビジュアルです。
 前髪……横髪?耳の手前にあるパッツン前髪パーツもよく見ると左右で高さが違っていました。連休最終日でかなりお疲れぽかったので、ウィッグが傾いてたのかもしれません。……中川さんの地毛だったら私は平身平頭しますね……。

 ああでもはっきり言っておく*2と、アシンメトリー=悪魔の象徴というわけではないです。じゃあ絶対違うかと言われると、……言い切るには難しいものがあってぇ……。
 このあたりは建築の話なんで全く門外漢なんですけど、シンメトリー(対称的)の建築用式って、権威の象徴に使われてた時代もあるんですね。だからほら、お城やステンドグラスのいっぱいある教会(カトリックに多い)って左右対称のものも多い。四谷にある聖イグナチオ教会*3もまあまあ綺麗なシンメトリーです。礼拝堂の中なんか特に。教会や礼拝堂がシンメトリーにされがちだから、シンメトリーを崩すことが聖なる属性の欠損とされるようになったんじゃないかな、と思っている。知らんけど。
 あとねえ、聖に対する属性だからでアシメデザインにされる創作キャラもちらほらいて……。嘘を吐くときは左上を見るとかと似たしくみですよね、あんなもん元が似非科学だしよしんばその傾向あったとしてもオタクの教養程度に広まった時点で適用できなくなる*4んだけど、日本じゃそこそこ広まったがために創作でこれが出たらこういうことですのお約束として通用するようになってるんですよね。

◆左袖のシジル

 シジルとは何か。正確なところはググるゴエティア*5読むかしてほしいんですが、ざっっくり言うと72柱の悪魔の家紋です。
 悪魔ちゃんの袖口模様はアムドゥシアスのシジルそのものではなかったけど、三叉の槍に尻尾が生えたような可愛デザインを紋様が装飾するそれは、まあ何らかの紋章やそれを模したものなんでないかと思います。それはそれとして、シックな黒地にマゼンダピンクの刺繍はかわいかったね。公式ちゃん気が向いたらツイッタに写真あげて♡

 さっきのアシメと同様、正しくはないが広く流布され『創作上の約束事』として成立する俗説に「悪魔は左利き」*6があり、片袖だけ模様が入っているのはそれが理由かなと思います。
うん片袖だけでした。わたくし丸1公演ガン見して表裏と確かめました。

 あとシジルってその悪魔の加護(悪魔なのに加護?とは言わんでくれ)をもらうためのお守りやアミュレットとして身に着けるものらしいので……。私にはラミンの意味がわからなくて有志に聞いたら教えてくれました。ありがとう有志。
……えってことはニコロの魂にはあの左袖の文様が刻まれてるの? それはなんというか……ドラマチックですね?
んで、エリザはいったんは受けた悪魔の所有印をニコロの魂の容で上書きしたの? それこそが愛*7だと?ロマンじゃないですか?

◆シルクハットとマント

 骨状の角に黒鳥の羽根、鱗柄のハットバンド。悪魔もしくは悪魔的とされるモチーフ詰めっ詰めにされていらっしゃる。悪魔ちゃんその帽子重くない? 概念で。

 同心円上の節がある骨状の角、はじめはヤギ*8かなと思ったんだけど、もしかしてユニコーンですね? アムドゥシアスの獣の姿として描かれることもあるあいつですね?
 黒鳥の羽根が2枚なのに角は1本しかないのも納得だよ。デザインの都合だろうとは思っていたが、ユニコーンなら堂々と1本がむしろ正しいもんな。余談なんだけど秩序で感性を描き出す音楽の権能を弄れる者が処女厨のガワ被せられてるのハチャメチャ愉快だな。

 黒鳥の羽根はよござんすね、みんな大好きオディールだよ。いえ、制作側の考えてる設定はオディールじゃないかもしれませんが、でも孔雀ではなかったし、烏でもなさそうだったから黒鳥じゃないかなあ。

 鱗柄のハットバンド。私あれはヘビのなめし革モチーフだと思うなあ。太さがそのくらいだったのもあるし、縁から少し覗くように濃い肉色の裏地orバイアステープがつけられてたのもあるし。悪趣味~~~!!(ほめてる)

 鱗柄のマント。ハットバンドより鱗が小さく見えたけど、これは布地の幅による目の錯覚だと思います。(同じ布地を使った方がコスパがよく補修や追加作製*9もしやすい、布の色味がかなり似ている、そもそもそんな柄の布を同系色で何種類も出すHENTAIメーカーはないと思う。)
 こっちはドラゴンイメージなのかなーと思っている(絵画においてサタンぼでぃはドラゴンで描かれることがある*10 )んだけどどうでしょうね。この演目の「悪魔」概念って、聖書そのものより派生モノや俗説、悪魔が登場する作品でのイメージを包含した二次創作概念から取ってきてる手触りがあるのよね。

 ベストの合わせのところが皮っぽい質感だとか、たぶん悪魔だけボタンでなくジッパーで留めるようになってるとか、膨らませた袖山が細長い革を何本も渡したようなつくりになってる(そして裏地か内側の生地かは例によって濃い肉色である)とか、このあたりも映えの他に元ネタあるような気配がしている。映画か戯曲かにあるんだろうなーとは。

悪魔の台詞編

 なんで悪魔に絞るのか? こいつ(キャラクターのほう)以外はほぼ聖書引用セリフを喋らんからです。なお私はこのことをこの作品における長所かつ工夫だと思っています。日本という非キリスト教国家において、聖書ネタは”誰にでも通じる一般教養”とは遠い位置にありますのでね。
「春はあげもの」*11で笑えるのが日本人か日本古典オタクしかないのと似たようなものです。

 また、新約聖書の引用するはなるべく「マタイによる福音書」を選びました。
福音書、一言にすれば直弟子が書いたイエス・キリストの伝記(装飾と取捨選択てんこもり)なんですけどね。なんと4つあります。(西洋脚本を楽しむための教養に)ちょっと読んでみようかなって思ってる人に4つ通読しろなんてかなしいことを俺は言いません。基本のところはこれとこれと以下略、とりあえず全部視聴してね!それは厄介古参なんよ。
 なので今回は、最もエピソードが多い*12マタイによる福音書をチョイスしました。冒頭の人名羅列(1章1節~17節まで)は読み飛ばしていいです。カインも出ないし。あれは「イエスの父はアブラハムの直系、旧約聖書からちゃんと血がつながってるオハナシですよ」の前置きです。

◆(エリザの)愛こそが罪

 聖書のどおりの解釈なのか曲解や反転解釈なのかはわからないけど、どっちにしても楽しいよね。
めたくそ長くなったので先に結論もってきます。エリザの愛がもたらすものは富と名声である、彼女の行いは悪魔に与えられた使命である、ゆえに彼女の愛は罪である。あたりかと思います。
愛と罪と使命について一通り話したら悪魔ちゃんおビジュ全体より文字数増えました。どうも話が長いマンです。

どっから話すのがわかりやすいかなー。キリスト教における原罪概念からかな。

原罪とは何か?

 キリスト教における原罪。聖書上では『知恵の実を食べたこと』がこれにあたります。で、何故これが罪なのか。知恵がつくことが悪か? まさか。そんなら天文学が上等な学問とされてた時代はなんじゃって話になります。神の作った世界は美しいはず、科学とはその美しさを読み解くものだって時代がありました。って科学哲学のせんせが言ってました。

 キリスト教における原罪とは「神の意志意向より自分の意思感情を優先すること」である。複数の聖職者に訊ねて全員から同じ返答がきたので確度は高いと思います。人の原罪は知恵を得たことではなく”神の言いつけを破った”ことのほうにあるってわけ。
 カインのエピソード*13ヨブ記を見るに“神の選択を(理不尽なものであっても)喜んで受け入れなかった”も罪っぽさありますね。旧約だけかもしれませんが。とんだモラハラ思考だし“宣教”やら迫害やらの正当化はこの理屈なんだろうなを思ってしまいましたね私は。旧約の神は理不尽で気紛れなのは20年前受けた聖書科の授業で言われたことなので(少なくともプロテスタントでは)現代的な信徒にはそこまで尖った見解ではないんじゃないかな。カトリックにおいても「旧約は神話である」が今はスタンダード解釈だと思う。何年か前に教皇がそういう宣言したニュース見た気がするし。

※宗派によるし教会ごとに色々ある(特にプロテスタントは牧師次第)ので、信徒や聖職者に軽率に「こうなんでしょ?」は言うなよ。私との約束だ。
 どの教会とは言わないが、この日本で進化論はデタラメだ洗礼者のみが正しいだを牧師が言っちゃう教会*14もあります。

人の愛と神の愛

 キリスト教における人の愛と神の愛*15は性質が逆……に近いと思っていて。人の愛は個人に注がれる盲目、神の愛は隔てなく注がれる慈愛。
 まあ地球は、というか世界は神の創造物でござるというのがキリスト教の前提概念でございますのでね……。存在している時点で愛を受けているわけっすよ。口調でお察しかもしれませんが私はこの発想をケッと思っています。信じているのは自由だと思うけど、この発想による言動は往々にして身勝手かつ傲慢で、私はたびたびその割を食ってきたので。差別も選民思想(この2つは同じものですが)も色々体験出せるけど、したい話はそれじゃないのでバッサリするね。

 たぶんクロスロードにおける愛はちょっと違う解釈(マタイ13:54-58等参照)だけどと言っておきますが(テレーゼの描き方を見るにね)、キリスト教における人の愛って必ずしも信仰と結びついてるわけではないんですよね。恋慕の愛でも家族の愛でも。
 というのも福音書では、親が子に注ぐ愛を悪人でも持っているものとして示されるんですよ。パンを求める我が子に石を与える親はいない。どんな悪人であっても、我が子には良いものを与えることを知っている。*16まして神が求める者に与えないことはあろうかと続くんですが、まあそれは次に書きます。

 なるべくマタイを選ぶねって言った矢先にゴメンなんですけど、この部分だけでなく章ごと読むなら個人的にはマタイよりルカによる福音書(ルカ11:11~13)のほうをお勧めします。特にクロスロード解釈に読もうと思ってるなら。文脈が違うんですよ。
 このフレーズ、マタイ7章のタイトルは「人をさばくな」、ルカ11章のタイトルは「祈るときには」で出てくるんです。たぶんだけどみんなアルマンドのソロ曲もちょっとネタほしいでしょ。マタイは別の章(マタイ6:5-13)にあるので、結果的にこっちのがコスパよきです。あと私が個人的にルカの文脈のほう*17が好き。ルカ11章はいくつかエピソードがくっつき50節超えしてるので、クロスロード用に読むならとりあえず13節まででいいと思います。曲解になるけど、11章45節以降はニコロ曰くの”敬虔な信者のミナサマ”を思い浮かべると楽しいかもしらんね。

使命について

 マタイで人の権限の話したしキリスト教における使命の話していい?このあたり押さえるとたぶんミュエリザ皇族組がもっと楽しくなるよ。私は王権神授説を使命の派生解釈だと思っていますが真偽のほどは世界史専攻マンに聞いてください。……愛こそ罪ともちゃんと繋ぐからちょっとだけ待って。

 さっき原罪のところで、神の意向より自分を優先するのが罪だと言いましたでしょう。言い換えると、神の言葉より自分の考えや判断を優先するのは罪*18なわけです。
 使命はその反対で、神がなすべきと定めたものを受け入れ従うこと……だと思っています。具体的に聖書のどこかと言われると難しいんですけど……新約での最たるものはイエスの死と復活(マタイ27~28章)かなあ。神が求めた死(人類のため神が与えた贄という使命)を受け入れたから死後の復活を成した、みたいな……。

 神の与えた使命が本人の意思感情によらないってのは、福音書の随所にある「こうして(旧約に出てきた)預言者のこの言が成った/成るためである」の言い回しの解釈でないかと思っています。知らんけど。旧約だと……まあいちばんはヨブ記*19かな……。

 キリスト教における「使命」のニュアンスがわかりやすい演目、最近だと今月7日にあった「歓喜のうた」メモリアルコンサートかなと思う。終わった演目を勧めるなって?大丈夫19日まで配信があります!視聴開始から24時間好きなだけ見られてお値段3500円!
 キリスト教概念を肌で感じるなら個人的に知念さん回がさすがわかりやすかった(レミゼのそれも歴然わかりやすかった)んだけど、教会のステンドグラスに描かれた聖母マリア*20から心で聴け(マタイ13:15)から歓びを届けるのが使命から、ホンと演出そのものが史実的なべとべん像をかなり尊重しているっぽいため、当時のあたりまえ(≒カトリック的信仰観)なコンテキストも感じ取りやすいです。
 私はなぜクロスロードの解説で別演目の話を?でもお勧めだよ、ウィーン版エリザコン並みに空気感がわかりやすかった。

 さて。そんな神の使命、果たすとどうなるのか気になりません? かつての私は気になりました。
牧師さんに訊ねたところ、「この地上が天の国により近づく」とのこと。神を信ずる者が神の意志を体現した言行を行えば、その者の周りは神が(原罪を犯す前の)人に作り与えた天の国により近づくって寸法です。
 全員が神の信徒であり神の意思の仲介者であることを心から望むなら、この地上は天の国に限りなく近いものになる。それこそが理想の世界でしょ?ということらしく、当時の私は物語としては好みだが現実としては承服しかねるなと思いました。自分に適用するのはよいが他人に求めちゃいけないやつだよ。(自分の信じる者と同じ唯一)神に従う意思のない者が理想の世界を邪魔する存在になるからね。CFAでも言った”信徒に非ずんば人に非ず”てのはこれです。もちろん現代の信徒は基本そうだなんて言わないが、英や米出身のALTとも日本人信徒とも関わる機会の多かった私の実感としては、滅多にいないとはとても言えないかな……。

 ちなみに。使命は自分で果たさなくても金で買えばいいんだよ!としたのが免罪符です。それにぶちギレした*21のがマルティン・ルター。その経緯もあって宗教改革で生まれたプロテスタント福音主義(福音=聖書のみを真とせよ)が主流なわけですね。

プロテスタント宗教改革以降に生まれたうち三大原理(ググってね)を守っている宗派の総称であり、福音主義以外にもいろいろあります。福音主義のみを指すのはバプテスト派だったかな。私は母校と通ってた教会がこれなので他のについてはわからないです。

お待たせしましたやっと「愛こそ罪」のターンです。

 音楽の悪魔と契約したエリザは悪魔の言葉を代弁します。楽屋だか館だかを訪ねたエリザは、悪魔の言葉にぴったり合わせて口を動かしている。
彼女の動機がニコロの音楽への愛にしろニコロ個人への愛にしろ、エリザの愛による行いは悪魔の意向を地上に通す手助けになっている。悪魔の望んだ状況に世界を近づける行い、って言い方したら伝わりやすいかしら。

 そしてエリザの愛によりニコロは「この世の全て」を手に入れる*22わけです。そして聖書は地上で積んだ富も名声も、天の国へ入る役には立たない。それどころか妨げるものとされる*23と言う。
 悪魔が度々使う「虚栄心」のワードもこのあたりに類する概念だろうと思ってます。地上でのみ価値がある、欲するほどに神の救いから遠ざかるもの。
それ故に、悪魔の望む世界に近づけニコロを救いから遠ざけるエリザの愛は罪なのだ。じゃないかな。

キャストの話

 作り途中の演目とキャスト感想で言おうと思ってたんだけど言っていい?私は今期の初見が相葉ニコロで、歓びに満ちたエリザの「この世の全てを手に入れるのよ!」にニコロが返した虚ろに響く「この世の全てを」にめちゃくちゃ嬉しくなっちゃった……。喜色満面のエリザに対して相葉ニコロは聞いたものをただ繰り返しただけのような顔で。エリザの”すべて”には「栄光」が、相葉ニコロの"すべて"には「虚栄」の文字が浮かぶようでサイコーだったよ。
 木内ニコロはぎらぎらと目を輝かせ笑う獰猛な悦びの表情を浮かべていて*24、その後のひもで押しやられ民にたかられする*25中で愕然とするんですよ。それもそれでまたよき。相葉ニコロより救いから遠そう。

◆求めよさらば与えられん

 こっからはさくさく行くよ。行くったら。

 マタイによる福音書7章7節。それなりに有名と聞きました。そうなんです?*26
 聖書どおりのニュアンスは、救いを求めて神に祈れば誰でも救いは得られます(天の国の門は開く)あたりです。キリスト教における神の救いとは「死後の魂の救済」であり、生きてるときにイイコトがあることではないんですね。むしろ富や栄光などは救いから遠ざかるとされている。

 劇中で出てきた順に書こうと思ってたんだけど一瞬飛ぶね? この救い概念がゆえ、ラストシーンでテレーゼが鐘の音と共にニコロを向いたのは「天使が彼の魂を(天の国へ)迎えにきた」カトリック的ハッピーエンドなんですよ。以上、戻ります。

 悪魔がエリザに囁くのはそういう意味ではないですね。おまえが望めば望むだけ、ニコロ・パガニーニの(より素晴らしくなる)音楽を味わえ、ニコロ・パガニーニの音楽はより高い名声を与えられる。こんな感じでしょう。彼女のするこれが罪だってが話はさっきしたから割愛。
 聖書の言葉(≒神の言葉で言霊でもある)を引用して悪魔の意思に沿うよう促す。状況の皮肉でもあるんでしょうし、荒野の誘惑(マタイ4章)に擬えてもあるんじゃないかな。

◆人は木を削り(殴るための)棍棒を作り、鉄を鍛えて剣を作る。私が剣を作れと言ったか?

 2幕で悪魔がエリザをなじる台詞。煽ってるのかと思ったらこのときの悪魔、なんか白けぎみの真顔で結構なご不服フェイスしてるんですよね。ニコロをおめかしさせながら「(不服だけどぉ、)神と悪魔、どちらにも共通することが1つある」言うてたときは愉しげ煽りフェイスしてたじゃん?
 いえ悪魔ちゃんは不服だけどぉみたいな口調じゃなかったんですけど、今期の悪魔ちゃんめんどくさい彼女*27みがあるので……めんどくさい彼女概念なんだよなその距離感と独占欲はな。

 これが聖書に由来するネタかは根拠がなくて、でもこの言い回しに猛烈に聞き覚えがあるんですよね……いえ、初演の記憶ではなく……。
 聖書ではなくシェイクスピア戯曲のほうかもしれません。(これは日本作だから違うかもだけど、)聖書とシェイクスピアは西洋モノのテッパンなので。いろんな作品で引用や本歌取りがされ、それによってより広く知られる好循環が回ってるんですね。シェイクスピアも聖書を土台にした価値観のポエットなので広い意味では聖書ネタっちゃそうなんだけど。

 カトリック*28のある文献で近そうなのがトーマス・ムルナーの阿呆祓いなんですが、そこまで来ると私の守備範囲を超えるので各自で解説探してください。

◆(神と悪魔に)共通することが1つある

お前たち人間が自分で決めているということだ。

 pick upしときながらなんですが、これ聖書ネタより派生作品や脚本家の宗教観な気がするな……。
 なんとなくだけど、クロスロードの悪魔観って神と対になる概念より精霊や天使と対になる概念、つまり神の力が形をとったものにより近い気がするんですよね。「天上の音楽」「天使の祝福」と対になる「魔性の音楽」、2幕ソロの言い様(神の意思により堕とされた存在)あたり。

 ところで日本語だと「天才」とされているところ、英語で輸出するならどう訳すんでしょうね。
才能はgiftedあたりだろうけど、geniusは天賦の才のニュアンスがあるじゃないですか。文字と語源が近いんだから調べるくらい負担しろWミーニングgift*29で押し通すんだったら面白いな。
 「天上の音楽」「魔性の音楽」の対比もどうするんだろう。キリスト教圏じゃ日本ほどangelic musicとdevil's music(devilish music)に才能ならば大差なしの印象は与えなさそうだし。天上/魔性の脚韻みたいに頭韻踏んでgefan(≒gift)とgehenna(地獄)とかにするのかな。

 ささやか(に見える)違和感で本質から違うものだと示す、日本が非キリスト教圏だから成り立ってるギミックを本場英語圏でどう再現するのかわりと楽しみにしているんですよね。そういうのが好きなオタクなので……。
 同じものを渡してさえ受け手の数だけ違う物語になるのが創作物の宿命だけど、作品一本で異なる受け手により共通した物語を受け取らせるのが創作者の腕だと思っているので。私は。宗教画やオラトリオなんかまさにそうじゃん?

カインの末裔

 悪魔ちゃん丸々一曲ソロってたんだけどごめんね私はなんかヒトみたいな顔すんなあよくわかんないけどと思って眺めてたよ。ゴメンネきみに傾けるひとの心が薄くてね。だってきみ悪魔だし、存在もやってることも外道だし。

 私はこのあたりさっぱりわからんので別の有志にお委ねします。というのも、ここは聖書が元ネタの設定ではないので……。ヒトでなしネタでもないし聞き取れもしなかったが故に完全に私の守備範囲外です。たぶん映画や洋モノ舞台を観てるそこの君のほうがわかるやつだよ。

 いちおう「カインとアベル」の話はしておく? 創世記4章、知恵の実*30を食べて楽園を追放されたアダム&エヴァの息子たちの話ですね。
 アダムの犯したことは原罪、カインの犯したことは最初の殺人と言われることが多いです。これはキリスト教に限らずですが、旧約聖書において祖先の犯した罪はその血に宿る*31ということで、我々ヒューマンの中にもその素養があるんですよ、だから己の心に従うと神の意に副わないという罪を犯す(それにより、死後楽園に至る権利を失う)ってわけですね。

 以下、創世記4章の雑な解説 ~読み飛ばしていいやつ~ です。
 アダムとエヴァは2人の息子を設けました。兄のカインは農耕、弟のアベルは牧畜をやっておりましたが、神のやろうがご飯の好き嫌いをして肉(とアベル)を贔屓した上に「なんで怒るの~おまえに疚しいことがあるからじゃないの~」などと棚上げ煽りをしてしまったがため、限界を迎えたカインくんはアベルを呼び出しkillしてしまいました。
 贔屓をkillされた神はおこしてカインを呪い*32、おめーが仕事しても草すら生えてこねーかんな!(農耕の否定)とした上で家から追い出しました。
あっでも(異教の野蛮マンに*33 )殺されないようにマーキングしといてあげるね!という謎配慮……配慮なのかそれは?を受け、カインは放浪に出されたのでした。
 こういう話。

 で。私は西洋の創作物における聖書ネタはさっぱりポンと存じ上げないので、なんでクロスロードくんがソロモンの使役する悪魔をカインの末裔言ってる(言ってなかったらごめん。私ここ話についてけなさすぎて全然頭に残らなくて……)はさっぱりわかりません。カインの子孫のユベル演奏家の始祖だから? えっそゆこと?

そのほか

◆私の祈りをきいてください、この幼子を救い給え

 みんな大好きアルマンドのソロ曲ですね。ニコロの魂が救われる*34ように神の慈悲を乞い願う、神以外の誰にも知られない*35祈り。他人のために祈るとはその人の信仰がなくならないよう祈ることである。(ルカ22:32)
 これこそ「求めよさらば与えられん」ですよ。悪魔ちゃん聞いてますか。まあ悪魔はわかって違う意味に使ってるんだろうけど。
や主の祈り(特にマタイ6:13)を土台に、
目も耳も悪魔を知覚しない、つまずく(マタイ5:26-30)ことのない清い人。正しい人の祈りは大きな力がある(ヤコブ5:16)や他人のために祈りなさい(ルカ……なんだけど出てこない)あたりもこれに解釈できるかしらんと思います。

 ……まああの祈りはガチガチに見るならすごく良い祈り方ではない(主の祈りは天にも地にも人にも物にも誓わず、ただ「主の御名において」のみ祈るもの(ヨハネ14:13-14)、己の命(使命を果たすため神から預かっているもの)を捧げる対価に見返りを求めるの、……どうなんだろう……。)気もするんですが、あの場面は「(俺が勝ったら)長生きしろよ」と言われた彼が自分の命を使っていいからと返す対比の構図がハイライトなところがあるので……。
 神に見放されて(自ら目の届かないところへ隠れた、がキリスト教的解釈としては近い気はしますが)いてさえ自分の幸運をアルマンドのさいわいのため使おうとするニコロに、私の持てるものすべて差し出すのでこの人に目を留めてくださいと神の祝福を祈るアルマンドの図なんですよね。互いに祈り合いなさいだよ。
 私はピンとこないんですが*36カトリックにはマリア信仰を代表とする聖人信仰*37があり、聖人に祈ることで神への願いを代弁してもらっておれの祈りパワーをブーストするぜ!な風習があり、もしかすると己の命にかけての祈りもそれに類するものなのかもしれません。

 あっあと「幼な子」も聖書ワードです。福音書において、幼な子は天の国に最も近い者(マタイ18:3)とされます。幼な子のように打算を持たずこの世の富に囚われず純粋な気持ちで神を信じなさいって意味ですね。幼な子という言葉を選ぶことで、この者は天の国に入る資格があると訴えかける論調にもなってる……気がする。
 キリスト教ネタ抜きに考えての父性を想起させる演出って見方も全然あってると思います。前にも言ったけど私はこの演目のこと、脚本家や演出が日本上演ではキリスト教ネタが暗黙の了解ではないと承知して、それ抜きでも楽しめる*38ように仕込みをしてると思っているしそれを日本で扱う西洋モノでシェイクスピアにも頼らず*39やってみせたのがえらえらのえらだし一番の偉業だとまで思ってるよ。
(キリスト教圏や白色人種の価値観が当然のように”先進的"で"スタンダード”とされる)世界で戦える日本のミュージカルとして強みじゃない?と思うんだけど。あとは楽譜を販売してくれたら言うことないです。(脚本はなんか……今期が終わった後にまた微調整されそうな気配があるので今出してとは言わない。)

 あとはレギオン(マタイ8:16-32)のあたりとかかってるのかなあ。悪霊(≒悪魔)憑きは神の力で癒される病なんですよね。まあニコロは悪魔の誘惑に負けて契約したわけですけれど、新約以降は罪人も悔い改めれば(=神のみを一心に信じて救いを求めれば)救われるの世界観なので。スクルージ*40とかわかりやすいでしょ。

◆天国と地獄に響くニコロの音楽

 I think 魂が引き裂かれちまったが(好きだよあの場面のこと。)日本の古典は想いすぎるとすぐ生霊が飛ぶのでニコロの音楽が神にも届いたように聞こえるけど、キリスト教において魂は割れていいものではないので……。そもそも唯一神教キリスト教は2つの主に仕えることを許さない*41ですしね。*42

 このあたりがあるので、ラスト曲のテレーゼ歌唱にリンゴン重なる鐘の音演出で天使が迎えに参りました!ニコロは天の国に行けます、ハッピーエンド!を確定したのえらだなと思っています。
 もしかしたらマタイ10:39も匂わせてるのかもしれませんが。命の最後の1滴を神に捧げたから永遠の命を得た(死後、天の国に入る資格を得たことをこう言います)のだと。

◆エリザの服装

 悪魔と契約してる最中のエリザの服装。長い袖つきの赤い上着、差し色は黒でしたね。
 キリスト教圏では、というかたぶん宗教画や他宗教への侵略*43で「発明」されたのがヨーロッパ全体に定着したんだと思うんだけど(黄色い衣はユダを示す、のように)、赤を纏うのはキリストの受難、転じて悪魔や地獄の示唆に使われる*44んだそうで。
 悪魔の衣装も黒ベースに臙脂の差し色だから(マントとハットベルト)、エリザが悪魔の従属下にあるのはお察しできるの配慮が徹底してるし匂わせがえぐいな(ほめてる)と思いました。
そもそも白が無垢や純粋、黒がその対極ってのは日本でも普遍的な想起イメージですもんね。日本で白い獣や鳥は吉兆、神やその眷属だったし。

 私の考えすぎの可能性も多分にあるんですが、契約前は純白ドレス、ニコロに誓いを捧げ直した後は黒いベストに白のスカートだったので、悪魔の意のまま動いているときの赤はまあ大方そういうことだと思います。

 

*1:この記事は、この演目でだけ言えることでない(ストプレでなくミュージカルで目撃したのは初めてだったけど)言及をこの演目でがっつり掘り下げたことへのゴメンネで成っています。

*2:これもキリスト教ネタです。福音書に出てくるイエスは「はじめに/はっきり 言っておく。」の言い回しがすごく多い。

*3:偏差値つよいカトリック系大学のひとつ、上智大学の隣にあるぞ。偏差値つよいプロテスタント系大学は青山と立教あたりでしょうか。

*4:考えてもみてほしい。あなたが何かを偽る必要があったとして、勘付かれないよう気を張っているときに『嘘を吐いている人間の特徴』として有名な仕草をするだろうか?

*5:ソロモン大好きオタクが>俺の考えた最強の魔神柱<を頑張ってしまったやつっていうか……。設定考えるのが好きなオタクがいればそれを読み集めるのが好きなオタクもおり、ここで読めます。

*6:例えばタロットの大アルカナ15番「悪魔」は左手を上げていますね。

*7:この演目において、利を求めない人の愛は神の愛と非常に近しいものである、として描かれているように見える。私見ですが。

*8:ヤギの角や蹄は悪魔の象徴としてよく用いられる。悪魔といえばのサタンはヤギの角と蹄を持つ存在として絵画に描かれ、先のタロット15番の悪魔バフォメットはヤギの頭部を持つ。

*9:もう何回も言ってるけど中川さんが倒れたら演目ごと共倒れになる状況は早めになんとかしてあげてほしい。40も過ぎた人にJB再来をさせてやらないでやってくれ。

*10:なぜ「悪魔」は「角とひづめ」を持つ存在として描かれるのか? -GIGAZINE

*11:「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく~」とはじまる清少納言枕草子の一節をもじったネタ。枕草子は中高どちらでも扱う題材、しかも清少納言紫式部は色んな作品で引っ張りだこの古典作家ツートップ。

*12:マタイの次に多いのはルカです、が、最も短いマルコによる福音書にも独自エピがあるので……。にやっとする小ネタを探すくらいの目的なら1つ読んどけばいいと思うよ……。

*13:兄弟の捧げ物のうち弟の物だけが目を留められたことに目を伏せた。抗議すらしてないんだぞぃ。

*14:この教会、ネットっていうかツイッターの運用がうまくてググると目に付きやすいので、興味あるから教会行ってみようかなする人はマジで気をつけてくださいね……。信仰は自由だがそれを私の専攻が進化遺伝学だと聞いて言ってくるのは人間性がどうかしてるZE

*15:旧約の神の愛は気まぐれで身勝手なものなんですが、というのも旧約の神はそういうもの(DV父親概念)なので……。宣教師資格のある聖書科の先生が言ってたからそれなりに標準解釈だと思う。求めよさらば与えられん、赦しと救済の神とされるのは新約からです。

*16:マタイによる福音書7章9節~11節。以後「マタイ7:9~11」の略し方で記載します。戻せない?大丈夫!コピペしてグーグルに投げれば本文まるっと出てきます!そのために略称と書き方が宗派を超えて統一されておるので……。

*17:マタイ7章の「人を裁くな」は律法学者批判の文脈なんですね。他者を裁くのは神の権限だ、神に成り代わったつもりなのか(バベルの塔 創世記11:1-9、神は人が己まで至ろうとした人をよしとしない、が下敷きかなと思う)、人に赦されるのはただ神の慈悲を乞い祈ることだけだ。になる。
ルカ11章は祈るときの心構えなんですよ。神に向き合いたいならただ祈りなさい、私は他者を赦すから、それと同じように私を赦してくださいという文脈。神が目を向けることをただ一心に乞い願う(そうすれば応えてくれるから)、あのシーンの解釈するならこっちのが口に合うんじゃないかな。

*18:例:ルカ1章。イエスに洗礼を施す預言者ヨハネの父ザカリアは、不妊かつ老齢の妻に子が宿ったという預言に問いを返したため口をきけなくされた。これを解除されたのは神の指示に従い「この子の名はヨハネ」と宣言してからです。

*19:雑な紹介:神が悪魔に最近の推し人間ヨブを紹介したら悪魔に「贔屓されてるから従順な信徒なんだよ」と言われました。その喧嘩買った!試してやろうじゃんと理不尽暴力を加え続け、絶望したヨブがいっそ生まれないほうがよかったと口に出したらおめえの信心が足りないと、ヨブが心からの信心を取り戻すまで信者と神とで寄ってたかって責め立てました。ひでえ話だよ。(一神教の例にもれず、キリスト教は太陽信仰が元なので文明がある程度発達するまでは理不尽な暴力の側面が目立つわけですな。この辺りは唯一神とか絶対的一神教とかでググるとわかりやすいです。)

*20:被ったベールもライトの色もベートーヴェンとの位置関係も、私はそうにしか見えんかった

*21:そりゃそう。神の言葉は行うもので聞くだけでは駄目(ヤコブ1:22。「ヤコブの手紙」が正式名称。イエスの愛弟子12人やそれにより改宗した人が、宣教のために書いた書簡を「~の手紙」と言います。)、地上に富を持つな(マタイ19:21-24)とあるのに信仰の体現である教会司祭が行いを金で売ったら、そらまあアウトでしょ。

*22:「あなたはこの世のすべてを手にするのよ!」「この世のすべて」

*23:マタイ5:5,15、6:16-21。散ってるのでルカ6:24-26でもいいかも。

*24:奇しくも悪魔との契約で「百万曲」を聞いた相葉ニコロが見せた表情に酷似していた。同じ場面の木内ニコロはああまで獰猛な顔をしない。

*25:あの場面、日本版ミュージカルエリザの結婚式演出オマージュだと思っているんだけどどう思います?

*26:私は隣人を自分のように愛しなさいのがポピュラーかと思ってたけど、もしかしてうちの母校のモットー聖句だから一際よく耳にしてただけですか?

*27:めんどくさい彼氏で連想されるのは普通に心身に暴力振るうクズのことだと思う。相手に自分と同じ人格を認めていないとき、ヒトは管理したがるものだと思っておるのだけど、日本で雄性として育つとその手段として暴力を使うのに躊躇いがない傾向が強いのよね。これは押し付けられた性役割だと思う。

*28:カトリック、聖人信仰なり階級なり聖書にない謎ルールを作って権威を持たせたがる傾向にある。……私はプロテスタント贔屓というかカトリック信徒に「そういうところだよ(だからスミス氏キレたんだよなあ)」を思うことがちらほらあったのでまあまあ揶揄の強い言い方をしがちです。

*29:英語の祖先言語であるゲルマン語では「贈り物」「毒」両方の意味がある

*30:こと日本だとリンゴがそれにされることが多いですがあっちだと諸説ありまして、杏や無花果もなかなか有力です。ハズビン等を見ればわかる通り、創作上のお約束として使われるのはリンゴがダントツですが。個人的にはでずにー白雪姫の印象も強いんだろうなと思う。

*31:選民思想血統主義の正当化はこのあたりかなと思います。新約聖書は人種や性別によらず神を信じ使命をなし死後の救いを求めるものは天の国に入る権利がある(=神に愛される存在)とされています。選民と罰による支配から信じれば報われる救済へ。イエス生誕以前を旧約、以降を新約(神との新しい約束)と呼ぶのはこれゆえだとか。

*32:聖書の文言ままだとカインが勝手に呪われたように聞こえますが、キリスト教において神は「全知全能」です。知恵の実を喰ったヒト族ならともかく、天や地が神の意に反することはないんですよ。

*33:CFA観たマンはなんとなく肌感わかるかもしれませんが、キリスト教、特に旧約は選民の宗教でして(これは牧師さんが言ってたので異端な考え方ではないと思う。)「神が作ったアダムとエヴァの子孫=信徒」以外はヒトではなく「神が用意した我々の財産」です。そういう視点でみると宣教の歴史やアメリカ”開拓”がわかりやすくなるかと思います。

*34:主の祈りの一節に、「我らを試み(=試練≒悪魔の誘惑)に会わせず、悪より救い出したまえ(マタイ6:13)」がある。

*35:祈るときには、偽善者のように人に見てもらおうとしてはならない。偽善者は、人に見てもらったことで既に報いを受け取っている。(マタイ6:5-6)

*36:神以外の者に祈るなとどう矛盾させないでいるのかピンとこない。十字架持ち歩き(バプテストにおいて十字架は教会の目印)やマリア像も偶像礼拝と何が違うのかよくわからないので(物語の符牒としてはわかる)、これは身近にあった宗派や信徒の違いによる価値観の差です。

*37:崇敬であり信仰ではないとの説もありますが、知り合いのカトリック校出身者いわく「マリアにも聖人にもめっちゃ祈るよ」だった。

*38:創作物をみたときに、その人の生きてきた背景(情報でも体験でも)で物語として意味のあるものと受け取れる

*39:演劇よく観るマンにはキリスト教ネタはわからなくてもマクベス・ロミジュリ・ハムレットのネタはわかる人が多いからか、日本の演劇(ストプレもミュージカルも)にはそれらのオマージュが副音声的な仕込み方をされてることも多い。

*40:原作『クリスマス・キャロル』は典型も典型な宗教説話です。金貸しって福音書の時代もそれからかなり下ってもユダヤ人の職業なんですよね。はじめから優しさには優しさを返していた(スープ屋への対応とかさ)スクルージが町の人々にあんな冷淡なの、つまりそういうことだよ。異教徒が”改心”して信徒のために”奉仕”すれば歓迎してやる、私はあの”ハッピー”エンドを(劇としての演目や演出は好きだよ、現代日本は民族や宗教での区別をあまりしないし。でも宗教説話として)おぞましいなと思ってしまうんだけども。

*41:だれもふたりの主人に同時に仕えることはできない(マタイ6:24)、主の杯と悪霊どもの杯とを同時に飲むことはできない(コリント10:21)など

*42:だから侵略と迫害と虐殺が宣教のひとことで正当化されてきたんじゃないかと思いますわよ。歴史学倫理学も明るくない素人の見解ですけれど。

*43:北欧神話冬至祭に「クリスマス」をぶつけ、主神オーディンに聖ニコラウスを宛がうことで異教の神を自教の聖人に貶める

*44:『ユダ イエスを裏切った男』(著.利倉健)