つまるところ。

観劇や演奏会の感想を置いて行く場所。だって青い鳥には推しがいるから。もっと雑多なログもある。 https://utayomichu.hatenablog.com/

MA1/31感想その2

 

見て取った構図の語りとこの人物のこのショットを見てくれを同時に書こうとするから行き先迷子になるのだと気づいた冬。気づきが遅すぎる……喉元過ぎれば振り返らないのが悪い……。

 

小野田さんオルレアン公。
歌が良い。いや本当に歌がいい。安定した艶のある低音から駆け上がるハイトーンの光沢、ぜひ「私は神だ」も歌ってほしい。
私この方を知ったのがNHKラジオ*1の生歌でそれ聞いた瞬間に出てる円盤すべて集めることをしたんですが*2、声量と音色の響きと艶が両立してるのすっごいよね。各音楽会社は一刻も早くこの人をつかまえてCDアルバムを出させてほしい。
オルレアン公、市民の味方と言いながら彼らを道具としてしか見てないから言動不一致のぬるつきが各所でみられる。煽動のために3色の布をばらまきながら市民はぼろを着たままなのとかさ……。3色で抗議行動するならその色の服で十分事足りるのに、服飾工場押さえられなくても生地だけ渡して服を作れと言えばいいだけなのに、なんですよ。端から手段・道具としてしか見てなくて、彼らを救うとか生活の改善とか発想そのものがないんだよな……。
女たちの煽動で硬貨を放ったのを見た瞬間にマルグリットが愕然とした顔になって、沸き立つ女たちを先導しながらも最後までその感情を隠さないままはけてったのが個人的にすごく好き。徹頭徹尾信用も信頼もしてない。
2幕頭だったかな、市民たちが沸き立つ中「暴力こそ」「自由だ」(正義だ、だったかも)の間に一瞬だけすうっと口角を上げるんですよね。彼だけ。今ここの怒りと熱狂で動いているだけの集団でひとり、彼だけがゴールの図を描いている。民衆が考えてるのは”現状”を”壊す”ことだけで、”どうなる”の明確な形をイメージしてはいない。オルレアンだけが己が実権を握る国家ってゴールを定めているから、怒りの空気に呑まれて動く暴動のなか期待通り進んでいる満足をおぼえるんだよね。
小野田さん、ダンスやってらしたからなのか指先まで意識が通っていてテンション上がる。あともしよかったら目元いやこれは好みの問題だな。目の動きや光のわずかな変化に感情がにじむ演技がヘキに入るというだけだしな……。でもせっかく綺麗な白眼なのでパンフだけでなく板の上でも見せてくれたらオタクはもっとうれしい。
ところで小野田さんも高貴な貴族枠なので艶のある長髪をリボンで括っている組で、妖艶なプラチナブロンドに黒いリボンが大変眼の幸福度を上げてくれるのでみんなぜひ一回は後姿をグラスで抜いてみてね。普段の黒いビロード?ベルベット?も似合うけど服屋来訪の着込んだ白に似合う黒も素晴らしいよ。

 

昆さんマルグリット
歌声の音色と台詞の音色が地続きなのすごくタイプ。ミュージカルのナンバーは歌だけど台詞なのでそういう調整をしてくれる人をみるとすぐ好きになっちゃう*3
マルグリットを道具でも英雄でもなくひとりの人間として見てくれるのが作中でフェルセンただ一人なの、ちょっと残酷すぎる(好き)世界は彼女を消費するばかりで誰も彼女を守ってくれない。連行されそうなマルグリットをフェルセンが庇ったの、彼女が母を亡くしてから見返りを求めない行為を受けた初めてで唯一だったんじゃないかな……。
スラムの人々は食料を得てくれる英雄として見ているしオルレアンや自称詩人は使える道具としか見てないし*4、マリーも敵としてはある意味対等な個人としてみてたり一瞬気持ちを分かち合ったりしたけど、可能性の絆さえ手紙を運ぶ道具にしたし。マルグリットがフェルセンに抱くたぶん恋心とされている感情、事由はもっともっと根源的なところにある気がしてならないんですよね……恋心としての発露が、なんというか一番”まとも”というか彼女自身が”容認しやすい”形だっただけで……。彼女をひとりの少女として気遣った扱いをしてくれた唯一の人間に特別な感情を抱く、人間が人間であるため心のやり取りを求める心身の悲鳴に近いものでは……?
処刑前の一瞬、マルグリットがマリーを(王妃ではなく)一人の人間として手を伸べたから、マリーも彼女に一人の人間として行為の感謝を返したのそういう意味でも胸熱だった。
昆さんマルグリット、ランバル夫人の私刑の場面で自分はなぜこんなことをしているんだろうって顔のまま、泣き崩れる母に不安がる子供2人をベッドに誘導して窓の外が見えないよう抱き寄せている姿が最高だから……。場面の終わりまでずっとその表情してるのに、子供たちから離れないしまもる腕をけして外さないの最高だから……。マリーの机をあさって咎められても平然と、言質を取られないためだけに言い訳してるあの冷たいからっぽの声と眼差しから自分の儘ならなさに振り回されているこの変化ですよ……

 

原田さんルイ16世
私はフランス革命ものにおいて、出てくるならもう例外なくルイ16世にハマる性癖をしているので割とこう最高だった。ミュージカル作品におけるルイ16世、だいたいは王適性のなさを自覚しているさとく優しく優柔不断なおろかものなので出てくるたびにテンションが上がるんですよね……。お飾りの道化であることしかできないとわかっているおうさま、かわいそうでかわいくないですか。私は「自分で履いたんだ」って笑って見せる彼の誰の面子も傷つけまいとする道化が大変好きだよ……。国王が一人でお召替えするわけないのに、もし本当だとしてもマリーのところに来るまで誰一人耳打ちしてあげなかったことは変わりないんだよなあ……。
MAにおけるマリーとルイ、どちらも「子ども」の夫婦なのだよな、と思う。どちらも子どもで現実が見えていなくて、それでも自分の役割としてぶつかってきたものにはほんのちょっと敏感だからお互いが子どものようにあぶなっかしく思える、そんな感じがする。ルイは国と民のあやうさがマリーよりよく見えていて、マリーは身内とされる人間の害意と作為がルイよりよく見えている。ルイ、マリー流にいえば「人の善意を信じすぎ」る人だから……。彼のそれは己がふがいなさへの負い目半分、国王としての国と民への愛情半分だったのではと思ってしまう。靴もだし革命の帽子もだけど、誰かが血を見るくらいなら自分が道化にされることぐらい躊躇わないルイ16世、国王の矜持と覚悟を十分に持っていると思うんだけどね……政治の能力は、まあ……だけど……*5 侮辱の意しかこもってない革命帽をひったくって被り正面から睨みつけるルイ、
MAのルイ16世、マリーに言う「理解している」もフェルセンを手を握って感謝を述べて続く言葉を塞ぐところも、なんというか愚昧ではあっても暗愚ではなさそうだなって思う。フェルセンとの仲もマリーの取り巻きが甘い蜜を吸っていることも理解はしていて、自分が干渉したところで(国にとって)良いほうへは変わらないから黙認しているような、根の深い学習的無能感が行動動機…行動しない選択の動機になってるような感じがしません?
投獄後、膝に抱き上げたシャルルぼうやの動かす馬車が胸を横切ってもするがままにさせて優しく歌い続ける姿が個人的ハイライト。その歌詞が「鍛冶屋だったら」なのが切ないよね。

*1:今日は一日!ミュージカル三昧

*2:ニコニコミュージカルのおまけCDもある。

*3:考えてみたら推し、みんなそのタイプだった。濱めぐさんとか田代さんとか唯月さんとか

*4:「女だが使える」「男七人分の価値がある」、女性に対して以前に人間に対して侮辱的に過ぎる

*5:というかミュージカル絶対王政において大衆に尽くす頂点はどうもダメっぽいよね、エリザのフランツも「甘すぎる」言われてたもんな